[写真]クイーン日本で2度ブレイク(2)

1975年4月20日、東京プリンスホテル日本庭園での野点の模様(C)SHINKO MUSIC ENTERTAINMENT/MUSIC LIFE ARCHIVES

 [前編・1975年編、寄稿・石角隆行(六角堂)]クイーン、ボーン・トゥ・ラヴ・ユーや伝説のチャンピオン、ウィ・ウイル・ロック・ユー等で知られるイギリスのロック・バンドのクイーン(QUEEN)は1975年と2004年に2回、日本で大きなブレイクを果たしている。そのいずれもがクイーンの躍進する契機になった。

当時はアイドルバンド

 クイーンといえば短髪に髭、上半身裸で歌うマッチョなイメージのフレディ・マーキュリーを思い浮かべる人が多いであろう。その姿からは想像もつかないが、日本ではアイドル・バンドとしてブレイクしていたのだ。

 クイーンが本国、イギリスでデビューしたのは1973年7月。この時期に渡英していた音楽評論家の大貫憲章さんは、ロンドンで彼らのサウンドに触れ衝撃を受ける。大貫さんは1974年3月にリリースされた日本でのデビューアルバム『戦慄の王女』のライナーノーツも書き、ラジオや雑誌「音楽専科」等で積極的にクイーンを紹介していく。同じ頃、クイーンに魅了されたもうひとりの日本人がいた。音楽雑誌「ミュージックライフ」の東郷かおる子さんだ。大貫さんがクイーンを正統派ブリティッシュ・ロックの新星として男性ロック・ファンにアピールしたのに対し、東郷さんはサウンド面もさることながら、彼らのビジュアルに着目し女性ファンに訴え出た。この頃のクイーンは、メンバー4人が揃って足が長く長髪(しかも一人はブロンド!)でイケメン。当時の洋楽ロックスター=不良というイメージとは対極の全員が高学歴でお坊ちゃん揃いという王子様キャラは、日本女子の琴線に多いに触れた。ミュージックライフのこの戦略は当たり、クイーン・ファンの女子が増大。洋楽ロックは男子が聴くものという当時の風潮に風穴を開けたのだ。

[写真]クイーン日本で2度ブレイク(4)

初来日時の日本武道館チケット。写真上は横浜文化体育館チケット(提供:SHINKO MUSIC ENTERTAINMENT)

 この流れに注目したのは、意外にも当時国内最大の規模を誇る芸能事務所の渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)だった。なぜ日本の芸能プロがクイーン? と訝しがるムキもあろう。少し話しはそれるが若干の説明を加えたい。クイーンの所属レコード会社はデビュー以来、一環として英EMIレコードだが、北米アジア地区での販売は米ワーナー傘下のエレクトラ・レコードが担っていた。その流れで日本でのクイーンのレコード会社はワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)であった。この頃のワーナー・パイオニアは米ワーナー社と、日本のオーディオ機器メーカーのパイオニア社、そして渡辺プロダクションの3社が出資して設立されていた。つまり、ワーナー・パイオニアは渡辺プロのレコード会社でもあり、所属歌手の多くは同社からレコードを出していたのである。クイーンにアイドル的資質を見出した渡辺プロは1975年春に招聘を決める。当時のクイーンはシングル『キラー・クイーン』のヒットこそあったが、日本でいえば渋谷公会堂クラスのホールでワンマン・コンサートが出来る程度のデビュー3年目の新人。そんな彼らに渡辺プロは武道館を含む国内7カ所のツアーをブッキングした。これは大きな賭けでもあった。当時、渡辺プロの朝礼で渡辺晋社長がクイーンのポスターを掲げて「今度はこれをやる!」と発表。「なぜウチで外タレ?」と社員も最初は大いに戸惑ったそうだ。ともあれクイーン招聘プロジェクトは走り出した。渡辺プロ、ワーナー・パイオニアそしてシンコーミュージック3社がタッグを組んだ強力なトロイカ体制で、ラジオやTV、新聞雑誌等のメディアにクイーン初来日を煽るプロモーションが始まった。

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