南アフリカ・サンシティ問題~BAND AIDへの不参加/クイーン解散へ向けての最初のつまずき

写真・クイーン来日公演振り返る(3)

1984年にリリースされたスタジオ・アルバム「THE WORKS」ジャケット写真

 来日公演中に行われた音楽雑誌「ミュージックライフ」の取材では、フレディ・マーキュリーは解散の噂を真っ向から否定している。しかし解散説には、それなりに頷けるものもあった。きっかけは前年にまで遡る。84年10月5日よりクイーンは南アフリカのサンシティでコンサートを開催した。当時の南アフリカ政府は白人中心のアパルトヘイト(人種隔離)政策を敷いており、これに対してイギリスの音楽家ユニオンは自国のミュージシャンが同地でコンサートを行わない事を宣言していた。そんな状況の中でクイーンはコンサートを強行した。帰国後、彼らを待っていたのは国内外からの避難の嵐であった。国連は危険思想があるとブラック・リストに入れ、英・音楽家ユニオンは制裁金を課した。クイーンは事実上、イギリスの音楽業界から干されて孤立したのである。

 同年、11月25日、ボブ・ゲルドフの呼びかけにイギリスの主だったミュージシャンが集まり、BAND AIDのチャリティ・シングル『Do They Know It’s Christmas?』の録音がロンドンのサーム・ウェスト・スタジオで行われた。クイーンにも声はかかったようだが参加はしていない。もっとも当時のイギリス音楽業界で「浮いた存在」の彼らだけに、とても参加出来る雰囲気でもなかったようだ。

ロック・イン・リオ大ブーイング事件勃発

写真・クイーン来日公演振り返る(4)

1985年5月15日大阪城ホール演奏曲目(クイーン最後の日本公演)

 この南アフリカ問題は、彼らを精神的に追いつめていく。グループ内に立ちこめた険悪なムードを払拭すべくバンドは、イギリスを離れ親クイーン国でもある南米へ旅立つ。1985年1月、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロで開催された「ロック・イン・リオ」にヘッドライナーとして招聘されていた。

 このイベントは25万人を収容出来る広大なスタジアムで開催され、南米全土でTV放映され2億人が視聴するという、クイーンにとっては失地回復の絶好の機会になる筈であった。問題が起きたのは1月12日の公演。ブラジルは日本と並んで2大クイーンご贔屓(ひいき)国。その気の緩みか、アンコールの「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」でフレディは同曲のPVと同じ衣装の、つけ胸の女装姿で意気揚々と登場したのだ。

 これに25万人のオーディエンスが一斉に反応し、あらゆる物がステージに投げ込まれる大ブーイングが起きた。この曲は貧困にあえぐ労働者階級層の間で自由を求めるアンセム曲として現地で支持を受けており、自分たちの大切な曲を汚すような演出に怒りをぶつけたのだ。しかしメンバーはそんな事情は知る由もない。ファンの異様な熱気に危険を察しコンサート終了後は逃げるように会場を脱出する羽目となった。

 しかし負の連鎖はこれで終わらなかった。1985年4月5日、初めて訪れるニュージーランドの空港やホテルに前年のサンシティ公演を非難するデモ隊が陣取っていたのである。世界中を敵に回した心境に陥ったのであろう。メンバーやスタッフ間はギクシャクし、決して良好な関係ではなかったようだ。やがてこの空気は周囲にも伝わり、英国プレスの間でクイーン解散説が報道され始める。

 5月9日よりスタートした最後の日本公演は、こうした環境の中で行われたのである。世界中で攻撃された彼らにとって、日本は世界一の親クイーン国。この国に限っては他の国で受けたような非難も無く、各地でいつも通りの歓待を受けた。

 当時の関係者に訊くと、滞在中のメンバーやスタッフの間には巷間言われるような不穏な雰囲気は無かったという。ブライアンとジョン・ディーコンは家族も帯同させて休暇を楽しみ、ロジャーとフレディは、昼はショッピング、夜はディスコ通いと大いに羽根を伸ばした。この時期の日本はクイーンにとって世界で唯一、騒音も雑音もない安息出来る避難場所になった。

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