INTERVIEW

小川紗良

子供たちの歩む姿を追い続けたい。
決心の歩出しになった『海辺の金魚』


記者:木村武雄

写真:木村武雄

掲載:21年06月25日

読了時間:約11分

 俳優でもあり文筆家、映画監督でもある小川紗良の初の長編監督作『海辺の金魚』が25日に公開される。身寄りのない子どもたちの暮らす家を舞台に、そこで育った18歳の花(小川未祐)が、新しくやってきた8才の少女・晴海(花田琉愛)との出会いで、今までに無かった感情を芽生えさせる物語。撮影は鹿児島県阿久根市で行い、花田をはじめ現地の子どもが多くキャストとして参加している。小川が本作で描きたかったものはなにか。【取材・撮影=木村武雄】

小川紗良

演技は極力削いだ

――着想は?

 撮影したのが2019年で私が大学を卒業した直後の時でした。私自身が自立のタイミングで歩みだして行くころに、私の過去作『最期の星』で主演された小川未祐さんと久々に再会してお茶をして。彼女は18歳になろうという時でした。これから表現者としてどうなっていきたいかなど、夢や葛藤が渦巻いていて、その彼女の姿が私の歩みだしていく気持ちと重なりました。小川未祐さんありきでもう一度映画を撮りたいと思い、女の子が自分の人生を歩んでいく瞬間を描こうと始まった映画です。私自身の中にも社会に出ていくうえでの葛藤があったのだと思います。

――それを、児童養護施設を舞台に物語に落とし込んだ理由は?

 昔から、いろいろな状況に置かれた子供たちに関心があり、映画や、ドキュメンタリー、本などに触れてきました。その関心や思い入れが自然と作品の形になっていったのだと思います。

――主役を演じた小川未祐さんは芝居が大変だったと思います。

 そうですね。未祐さんの周りにいる子供たちは、ロケ地の鹿児島県阿久根市の地元の子たちなので演技経験もないですし、自然そのもののような感じでした。自由奔放な子供たちの中に役者が自然に入っていくことはすごく難しいことだと思います。普段なら同じ役者同士でセリフを言い合っていますが、今回はそれが通用しない現場でしたので。未祐さんにはとにかく芝居をしないようにと言いますか、演技をそぎ落としていくということをずっと一緒に考えながらやっていました。

――セリフがかぶっているところもそのまま生きていますね。

 そうですね。テレビドラマではお茶の間に向けてセリフがかぶらないよう配慮することもありますが、この作品ではそういうことはせず、本当に生活しているような感覚で、子供たちと自然に過ごしてもらっていました。

――子供の純粋な笑い声が印象的でした。なかでも流しそうめんを食べているシーンは、現場も和やかだったんじゃないですか。

 子供たちはとにかく楽しく食べていました(笑)。撮影の前日から「明日は朝からそうめんだよ!」ってみんなで言っていて(笑)。ですので、当日は「好きに食べて!」という感じで撮っていました。

――晴海を演じた花田琉愛さんも、現地で、オーディションで決めたそうですね。決め手となったのは?

 第一印象で、目力や芯の強さを感じました。オーディションの時も子供たちにはただ遊んでもらっていましたが、その中でも花田さんには特に惹かれる強さを感じて。この子なら出来るかもしれないとその時にピンときました。

――花田さんの強さに惹かれたのは、晴海というキャラクターに強さが必要だったからですか。

 歩み出していく女の子たちの物語なので、複雑な環境にいたとしても、心の底で湧くような強さは欲しいと思っていました。目力や存在の説得力みたいなものは、探している段階から大事にしていました。

――境遇として自分を信じて生きていくしかない、その強さは確かに感じました。それと同時に、純粋さも出ていて。それは花田さんがもともと持っていたものですか?

 そうですね。あの純粋さというかキラキラしたものは、子供たちみんなそうですけど、あの自然のなかで育ったからなんだろうと思いました。都会とは違う煌めきみたいなものがみんなにあって、すごく魅力的だと思いました。そこが阿久根市の現地の子とやりたいと思った理由でもあります。それと、こういう境遇の子供たちを描くうえで、もちろん抱えているものは複雑なのですが、「かわいそう」だとは思ってほしくないとすごく思っていました。「かわいそう」って外側から見た、他人事のような視点だと思っていて。この映画ではもっと見て下さるお客さんを内側に呼び込んで、そこにいる一人一人の日常、笑ったり遊んだりする瞬間、この家なりの当たり前の風景に触れて頂きたいと思っていました。ですので、自然体な子供たちの姿をちゃんと撮りたいというのがありました。

――それと、小川未祐さんが演じた花は、晴海や他の子供たちのお姉さん的な役割でもあり、お母さん的な役割でもある。でも自分はまだまだ18歳という子供ともいえる年頃で、その境を絶妙に演じ切っています。それは監督が求めていたもの?

 未祐さん自身がすごくしっかりした子で、当時は18歳でしたが、私との年齢差を感じないぐらいでした。劇中の言葉を借りれば、すごく「いい子」だと思ったんです。でも、そのしっかりしている部分が、花にとっては切ない部分でもあって。しっかりせざるを得ないといいますか、子供でありながら大人の役割も担わなければならない境遇があって、あのしっかりした人間像ができています。それを話が進むにつれて解いていければいいなと思っていました。

――ということは順撮りですか?

 ほぼ順撮りでした。最初のシーンから始まって最後のシーンで終わったという感じでした。

――未祐さん自身はその役回りをちゃんと理解しているような感じでしたか。

 理解してくれていたと思いますが、それ以上に深めていけるよう準備の時間を大事にしました。撮影に入る前から東京でリハーサルをして、事前に阿久根市にも行って一緒に子供たちと過ごしてもらったり。そのなかで色々と考えてくれたと思います。

小川紗良

全く理解できないことの面白み

――劇中では、登場人物、特に花と晴海の建前と本心、その葛藤が描かれています。

 それは「いい子」というキーワードに凝縮されていると思います。「いい子」という言葉は、目上の人からの褒め言葉でもありつつ、受け取り方によって呪いのようにもなってしまう、二面性のある言葉だと思うんです。花はどちらかというとその呪い的な面で、ひとりの子供としても、みんなの親のような立場としても葛藤している。その花自身を縛っている「いい子」という呪いを、晴海との関わりで解いていけたらいいなという願いを込めています。

――コロナ禍以前の撮影でしたが、このコロナ禍で、人との関わり合いを考えさせる作品になっているような気もします。相手の心を理解することとその難しさを。

 撮影当時は全くコロナ禍という状況を想像していませんでした。図らずもこの時期に、しかも作品にぴったりな夏に公開されることは結果的に良いタイミングになったと思います。このご時世でみんなが遠くに行きづらいなか、自然豊かな景色や子供たちの触れ合いを見ることで、ふと人の心を解くようなものになるかもしれないです。

――心を解く力もあると思いますが、人の関係性のなかで相手の心を理解するには心の余裕がなければならないということも感じ取りました。

 そういったことを伝える映画として制作したわけではありませんが、人の心って完全に理解することはできないじゃないですか。例えば、花の母親。花からしたら、距離や離れている年月もあり、実際母がどう人で何を考え何をしたのか、実の子であってもよく分からない。またそんな花に対しても、どういう背景を持っていて何を思っているのかという本当のところは、花の周りにいる人たちからしても分からないわけですよ。でもその背景をどうにか想像して理解しようする歩み寄りが、相手の心を解き、回り回って自分の心も解くカギになるのかもしれないです。

――相手を理解する想像力がこの時代、欠如しているとも言われています。

 想像力の欠如については、作り手も観客も共犯関係にあると思っています。作り手側がどんどん分かりやすい方に流れていくうちに、観る側も分かりやすいものばかり求めてしまうという流れが、相互関係でどんどん加速していると思っています。私は想像する余白があるものとか、観客の想像に委ねてくれる作品が好きです。想像する余白がない作品は、結局演じている役者さんの伝える力も、見てくださる観客の感じとる力も、信じていないのかなって思います。そこを信じて想像力で広がっていくような作品を私は作りたいです。

――それは作り手と受け手の関係にも通じるところがあり、余白は前後の事柄で捉え方が変わって、その事柄自体が同じ認識、共感を持てていないと成り立たないと言いますか。例えば「好き」という言葉自体の認識がなければ、指輪を差し出されても何のことか分からない。

 でも共感できない、わかりにくい、理解できない面白さも私はあると思っています。むしろ、そういった理解を超えたものの方が個人的には好きです。でも今はみんな、どちらかというと理解できるものを求めて、共感しに映画館へ行く流れがあると思っています。私は全く理解できないものにも面白みを感じていて、この作品で言えば、ラストの展開も全く共感できない、どうしてこうなるのか、と受け取る方もいるかもしれません。しかしそれも人間の一面だと思っていて、人と人との関係性はそんなに白黒付けられるような、全てを共感し合えるようなものではないと思います。そういう、理解や共感しきれないことの豊かさを映画の世界で残していきたいです。

――そのなかで、本作ではどう意識されましたか。

 “映画っぽい”要素をできるだけ削ぎ落とすということを考えていました。脚本の段階もそうですが、画の切り取り方や色味の付け方、音の付け方とか。音楽で言えば、共感や感動を煽る音楽は付けないようにしました。そういう音楽って、先ほどの話のように観客を信じていないものだと思っていて。観客の心の中で十分に想像して心が動くはずのところにわざわざ大袈裟な音楽をつけるのは、感情を操作しようとしていることだと思うんです。できるだけ、観客に委ねて、その中で波が起きて欲しい。そのために“映画っぽい”ところはそぎ落としました。

――記事を書く身としては、記事の描写やこちらの意図をどこまで理解してもらえるだろうか、ずっと悩んでいます。

 その気持ちも分かります。果たしてどれぐらい受け取ってくれるんだろうと不安になる気持ちは、私も作っていて常々感じています。でもそうやって、お互いを疑い合って忖度するうちに、どんどん分かりやすい方に流れてしまうのだと思います。受け手にちゃんと理解してもらえるか不安だから、感動的な音楽を入れようというふうに。そしてそういう作品に触れる観客が増えていき、ますますわかりやすいものばかりが求められていく。結果、お互いにどんどん下がっていくというか。それは作り手の責任でもありますし、見る人の責任でもあります。だからこそやっぱり私は想像力を信じて作っていきたい、粘りたいなって思います。

――そこは挑戦でもあり葛藤ですね。

 そうですね。今回の作品でも例えば、花の母親の描写ってすごく少ないんですよ。基本的に子どもたちに寄り添っていて、母親の方はかなり曖昧にしていて、どれだけ出すか出さないかは脚本の段階からかなり迷っていました。でも、もうこの作品は子どもの視点に寄り添って作ろうと決めて、あとは想像に委ねる決断をしました。

小川紗良

子どもを通して見える過去、現在、未来

――細かい話になりますが、劇中では「水」が一つのキーアイテムになっている気がします。花の湯船に浸かるシーンや金魚、水槽、雨、そして人魚姫の読み聞かせなど、水が多く登場してきます。

 あまり意識はしていませんでしたが、言われてみれば水の描写は多いかもしれないですね。観て下さった方の想像で広がっていることが感じられて、嬉しいです。あの土地の壮大な自然と、そこいる子供たちの姿を重ねながら作っているところはありました。それが海や水槽といった水のモチーフになり、そのモチーフの中で主人公たちの心情が自然と表れていたのだと思います。花と晴海の雨のシーンなんかは、雨を降らせるために地元の消防隊の方に来て頂いていたんですけど、ちょうど自然の雨が降ってきて。大学の時に撮った『あさつゆ』という梅雨を描いた短編映画でも、ちょうどカメラを回しているときに雨がざっと強まった時がありました。基本私は晴れ女なんですけど、降るべき時に降ってくれて。今回の作品もそうですが、自然が味方してくれた感じはあります。

――それと、晴海がおねだりして、花が「最後だからね」と言うシーンが何度か出てきますが、寛容的な時もあれば叱責するときもあって。それは花の心の揺れ動きによって変わる。子供を持つ、あるいは教え子がいる環境ではそうしたことも見受けられます。

 そのセリフもあまり意識していなくて、たまたまだと思います。試写でもお子さんがいる方の感想は、ちょっと視点が違っていて面白くて。花と晴海がボンタン飴を腰かけて食べる微笑ましいシーンがあるんですけど、その何気ない瞬間に泣けましたという方もいて、立場が違うと映画を見る観点も変わるのが面白いなって思いました。

――映画ではありますが、聴く人の環境で捉え方が変わる音楽にも似ていますね。

 本当にそうですね。

――先ほど監督自身の挑戦について話を聞きましたが、ご自身は今後どうなっていくと思いますか。

 今回の作品を通して明確に、私は子供たち、特に少女が歩んでいく姿に関心があると思いました。今回は花という主人公が歩み出す物語になりましたが、私自身の、子供たちや少女たちを描いていきたいという決心の歩み出しにもなった気がします。子供たち、少女たちの歩む姿を、役者としても監督としても執筆家としても、追い続けていきたいと思いました。

――関心があるということは感情が動かされたということになろうと思いますが、そこにどんな魅力を感じていますか。

 子供たちは常に今現在を生きていて、その姿は私たちが通ってきた過去に通ずるものもあって、また私たちと共に歩んでいく未来へつながるものもでもある。そんな過去も現在も未来も存在している感じが偉大だなって思います。そういった子供たちの姿を描いたり携わったりすることで、自分自身が活き活きしてくる感じがするんです。

小川紗良

(おわり)

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