<記者コラム:オトゴト>
 私の好きなバンドにBOOWYがいる。昨年はデビュー35周年を祝い、彼らを象徴するライブの映像作品『CASE OF BOOWY』や『BOOWY 1224-THE ORIGINAL』が発売された。これに関連して取材する機会があり、改めてBOOWYの音楽に触れ、感じることがあった。

 数ある名曲のなかでふと歌詞が浮かんできたのは「Dreamin’」。氷室京介がラストツアー『LAST GIGS』の最初に歌い、布袋寅泰は日本ツアーの代々木第一競技場公演でアンコールの最後に届けた曲だ。

 そこにこういう歌詞がある。

 <右へならえばおちつき一日を選べない>
 <人形ともちがわない OH NO!>

 社会的に、昔も今も変わっていないのではないか、とふと感じた。この楽曲が発表された当時は高度経済成長後の安定成長期、のちに浮かれていた時代と言われるバブル経済期にあった。この歌の冒頭には<ボルト&ナットの仕組みで組み込まれる街で>というものがある。決められた枠のなかで、決められたことをこなす。これは大ヒット曲となった「MARIONETTE」にも描かれている。

 現代、ネットが発達して様々な情報が容易に手に入ることができるようになった。無料で得られるものは手離れが早い。どんどん情報が消費され、そして陳腐化する。それは何も報道側の問題ではなく、過激なことで注目を集めようとする一般側にも潜んでいる。

 <右へならえばおちつき>。報道側もそうだ。誰かが引退を発表すれば、そこに群がる。その人の活動背景をちゃんと見ぬまま、表面上のことを報じる。発信力がある媒体であればあるほど、大衆性を重んじて、誰でもわかるような記事を作ろうとして、深く、いわゆる専門性のところを省く。そして、その専門性は評価されにくい。

 最近は「リテラシー」という言葉を聞かれる。あることを理解して分析、表現する力を指す言葉のようだ。私がよく耳にするのは「報道リテラシー」だ。それは何も報道側だけではない。私は情報を消費する読者側にもリテラシーが必要ではないかと思うのだ。

 <右へならえばおちつき>。ここの媒体だからこの情報は正しい――。昔はその傾向が強かったが、ネット時代になり、その価値判断は薄くなっている。足で稼いだ記事や取材経験に基づく記事、ただまとめた記事も同列になって消費されていく。<右にならう>ことすらできなくなっているのではないか。これは音楽の世界にもある気がする。

 元旦というめでたい日に少々、気が落ちる記事になってしまったが、昨年、取材を通してひしひしと感じた時代の変化が今年は更に顕著に表れるのではないかと感じている。「1年の計は元旦にあり」――。自分自身への戒めとしてもしたためた次第である。最後に、皆さんにとって今年が良き1年でありますように、そんな願いを綴り、結びとしたい。【木村陽仁】

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